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HOME > ニュース > 香川県日中友好協会の藤井会長インタビュー

ニュース

第一部 綾川町役場訪問

綾川町役場訪問

中国の春節を前にした2月7日、四国華僑華人連合会の一行6人(張嘉樹会長、劉岳本副会長、冷樹風事務局長、毛勇監事、2月から理事になった劉興楊理事と事務局の馬信群)と日中友好協会の武田事務局長ら2人が綾川町役場へ綾川町長兼香川県日中友好協会の藤井賢会長を訪ね、中国新年の挨拶とインタビューを行った。藤井会長は毛沢東時代から中国と付き合い、中国に非常に熱意を持ちつつ、今でも中日友好事業に力を尽くしておられ80歳とは思えない大変お元気で親切な方であった。インタビューでの藤井会長のユーモアあふれる話と博学多才さに参加者皆が深い感銘を受けた。

うどんの発祥地は香川県の綾川町(旧綾南町)

綾川町役場にて藤井賢会長にインタビュー風景

綾川町役場にて藤井賢会長にインタビュー風景

四国華僑華人連合会の2010年新年会の時に藤井会長からうどんの歴史と日中関係の面白いお話を頂き、中国、綾川町、うどんの歴史関係についてますます興味を持ち、改めて話を伺った。

藤井会長の話によると香川の綾川町に龍燈院(滝宮天満宮は、かつて讃岐国国司の官舎(有岡屋形)が存在した場所と言われている。)という有名な寺があり、約1200年前、空海が2年間中国へ行った時、空海の姉が佐伯家から龍燈院へ嫁いで来た。空海が中国の唐でうどんの製法を学び、姉がいる龍燈院へ帰ってきて、この地で初めてうどんの製法を伝授したということから、うどんの発祥地は香川県の綾川町であると藤井会長は語られる。これまで多くの学者からはうどんはもっと早く中国から日本へきたといわれており、また、うどんの発祥地についてもそれぞれの違う見解があったが、藤井会長は自らの主張を信じ、この結論については多くの人々の賛同を得ていた。

ここで弘法大師、空海を紹介しましょう。

空海(くうかい)は、平安時代初期の僧。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名(諡号〈醍醐天皇、921年贈〉)で知られる、日本真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

空海は延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧として唐に渡る。

故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、江戸初期の真念によって札番号を付けてまとめられ、俗に言う四国八十八箇所の寺々他多くの霊跡として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

綾川町役場訪問

続いて綾川町の東側にある生涯学習センターと菅原道真(すがわら みちざね:日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。)という歴史人物のお話を聞かせていただいた。菅原道真は当時政治をする為京都から綾川町へ来て、4年間綾川町に住んだことがある。香川県は日本でも降雨量の少ないところであり、菅原道真が綾川町にいた4年の間、綾川町は大干ばつに遭い、菅原道真が坂出市にある白山へ行って雨が降るように祈願を行った。一週間経った後雨が降り、農民たちがとても喜んだという話を藤井会長から聞いた。生涯学習センターは藤井会長が、子供からお年寄りまで歴史や文化にあふれた古里を学べることを目的として、2009年度に建設した総合的な施設である。

続いては、室内に飾った記念品について説明していただいた。すべての記念品それぞれにその時代の歴史があり、また、面白い物語があった。

大正天皇が乗った馬の彫刻像/池田 勇八 作

大正天皇が乗った馬の彫刻像/池田 勇八 作

池田 勇八 (いけだゆうはち)
彫刻家
(明治19年〜昭和38年)香川県綾川町出身

池田 勇八 (いけだゆうはち)
彫刻家
(明治19年〜昭和38年)香川県綾川町出身

宮武外骨について語ると当連合会の毛勇監事

宮武外骨について語ると当連合会の毛勇監事

宮武外骨(みやたけ がいこつ)
1867(慶応3)年~1955(昭和55)年
綾川町出身
讃岐国(香川県綾歌郡)陵南(りょうなん)町の豪農の4男として生まれる。大阪を舞台に明治中期から昭和期にわたって活躍、“反権力”を生涯つらぬいたジャーナリストの草分け、新聞史研究家・江戸明治期の風俗研究家である。

続いてシリーズ誌「歴史を作った先人たち、日本の100人」の1人としても登場する宮武外骨について話を頂いた。藤井会長の話によると当時、宮武家は綾川町の地主であった。 ここで言う地主とは中国の封建時代の地主と同じで農業用の水田や畑を耕作者に貸して、それ後年末に農民の全剰余価値をとるやり方をする土地の所有者であり、また、宮武外骨は差別がある当時の明治憲法に抵抗した民主主義の発案者でもあると話した。

町役場に飾られていた貴重な記念品を紹介

中国友好門球交流比賽友誼杯 中国・西安市
中国友好門球友好大会冠 軍
北京国際市民体育大聯歓組委会 二〇〇六年十月十二日
ある写真について熱心に説明している藤井会長

ある写真について熱心に説明している藤井会長

中国友好門球友好大会冠 軍
北京国際市民体育大聯歓組委会 二〇〇六年十月十二日

中国友好門球交流比賽友誼杯 中国・西安市
1995年、綾川町と中国新楽市

1995年、綾川町と中国新楽市
友好都市として締結

1985年8月5日、藤井会長が選挙で勝つように、
孫平化さんが『再接再厉,旗开得胜』と書いてくれた。

1985年8月5日、藤井会長が選挙で勝つように、
孫平化さんが『再接再厉,旗开得胜』
と書いてくれた。

第二部 うどんの歴史

綾川町うどん会館

藤井会長のインタビューが終了後、綾川町役場の付近にある綾川町うどん会館を案内していただき、藤井会長からうどんの歴史をお聞きしながらおいしいうどんを頂いた。

うどんの歴史を紹介している藤井 賢会長

うどんの歴史を紹介している藤井 賢会長

うどんを伝えた智泉大徳
延暦8年(789)2月14日、父滝宮龍燈院の菅原氏、毋空海の姉(後・智縁尼)の間に生まれる。空海門下第一の秀才と評され、十大弟子とも、四哲ともいわれている。
延暦23年(804)遣唐使とともに入唐した空海が大陸の進んだ文化をたずさえて帰国すると、師であり叔父でもある空海から「うどんの祖」を伝授され、故郷である滝宮の両親をもてなしたのが讃岐にうどんが伝わった最初であると伝えられている。

藤井会長は『うどんの祖』は智泉大徳ではなく、空海の姉―智縁尼であると考えている。

さぬきうどん用小麦
うどんの時代変遷

うどん会館の本棚に陳列している、
うどんに関する書籍。

藤井会長と楽しく談話しながらうどんをいただく風景

藤井会長と楽しく談話しながらうどんをいただく風景

綾川町うどん会館の前で集合写真

綾川町うどん会館の前で集合写真
(左)当連合会の劉興楊理事、高秀雄理事、日中友好協会の藤井賢会長、当連合会の張嘉樹会長、 日中友好協会の武田事務局長、当連合会の劉岳本副会長、毛勇監事(後)、日中友好協会の武田事務局長友人(中)、綾川町役場職員(前)、当連合会の冷樹風事務局長

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